和歌山以外の地域の写真をこちらにまとめます。メインブログはhttp://vonbraun.exblog.jp
by hobohitoritabi
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明日香村散策2
字数制限がかかり、ひとつにまとめられなかったので、続きです。
明日香村散策1はこちら
川原寺跡(史跡)
12:25
川原寺は、創建の年代、経過については明らかではないが、飛鳥朝極めて重要な意義を持っていた寺院である。 まず、創建の時期については敏達天皇13年説、斉明天皇元年説、斉明天皇7年説、天武天皇朝あるいは奈良時代の宝亀5年説などがあって、必ずしも明確でない。しかし、天武紀2年3月の条に「是月聚書生始写一切経於川原寺」とある。したがって以上の内容と合わせて、天武期に存在したことは確かである。ただし、従来からも問題となっている孝徳紀白雉4年6月の条の僧旻法師の遷化に関する記事の中に「安置川原寺」とあるが、その割註に「或本云在山田寺」とあることから、川原寺か山田寺かどちらか不詳である。しかし、天武朝以後、奈良朝にかけてかなり勢力をもった寺院であったことは容易に知られる。すなわち天武紀14年8月甲戌朔丙戌に「幸于川原寺施稲於衆僧」とあり、同9月丁卯の天皇の病気平癒祈願のために「桶経於大官大寺・川原寺・飛鳥寺。因以稲納三寺」とあり、朱鳥元年4月壬午の条には「為饗新羅客等、運川原寺伎楽於筑紫、仍以皇后宮之私稲五千束、納于川原寺」とあり、川原寺に伎楽が置かれていたことがわかる。また、同5月癸亥には「天皇体不安、因以於川原寺説薬師経」、同6月丁亥には「勅遣百官人等於川原寺為燃燈供養、仍大斎之悔過也」とあり、9月辛丑には「悉集川原寺為天皇病誓願」とある。したがって天武天皇の病気平癒を祈願するため、川原寺において盛んに法会が行われたことが知られる。その甲斐なく天皇崩御の後、持統即位前紀12月乙酉の条に「奉為天渟中原瀛真人天皇設無遮大会於五寺」とあり、その中に川原寺の名が挙げられている。こうしたことより川原寺は天武天皇と特別な関係にあったことが推定される。
橘寺境内 (史跡)
12:27
道を挟んだ反対側の小高いところに橘寺がある。
創建の事情や年代については明確ではないが、聖徳太子伝暦によれば太子がこの地で勝鬘経(しょうまんきょう)を講ぜられたとき、瑞祥があり、それによって仏堂を建立したとある。従来から問題視されている史料としては、河内野中寺の弥勒像の丙寅(天智天皇5年-666)の紀年銘に「橘寺智識之等(詣)中宮天皇大御身労坐之時、誓願之奉弥勒御像也」とある。また法隆寺東院資材帳によると推古天皇14年7月、「天皇詔太子日、於朕前講説勝鬘経、則依詔太子講説三日、講竟夜蓮花零、花長二三尺溢方三四丈之地、則其地誓立寺院、是今菩提寺也」とある。推古14年という年代についてどの程度の信憑性がるかは別として、天武紀9年夏4月、「乙卯(十一月)、橘寺尼房失火、以焚十房」とあり、また類従国史には延暦14年4月20日の条に「大和国稲二千束施入菩提寺以遭火災也」とある。さらに上宮太子拾遺記には久安4年(1148)に塔が雷火のため焼失したと伝える。これらの記事によると再三災厄をうけたらしい。平安朝になって、治安3年藤原道長が参詣し、享徳元年の古記のある南都七大寺巡礼記には、伽藍の構成などを挙げている。
弘福寺
12:28
川原寺の金堂跡地には、江戸時代中期に現在の弘福寺が建立され川原寺の法灯を継いでいる。
弘福寺
12:30
橘寺本堂
12:34
橘寺は、正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」と称し、本尊は聖徳太子・如意輪観音。
橘寺の付近には聖徳太子が誕生したとされる場所があり、寺院は太子建立七大寺の1つとされている。
太子が父用明天皇の別宮を寺に改めたのが始まりと伝わる。
当初の建物は、東を正面として、中門、塔、金堂、講堂が東西に一直線に並ぶ、四天王寺式または山田寺式の伽藍配置だったことが判明している。
本堂(太子堂)は元治元年(1864年)に再建された建物で、本尊として聖徳太子坐像が安置されている。
二面石
12:35
二面石 境内にある高さ約1mほどの石造物で、左右に善相と悪相が彫られており、人の心の二面性を表現している。
五重塔跡
12:39
落雷で焼失。塔心礎(心柱の礎石)が僅かに往時を偲ばせる。心礎の柱孔は円柱の周囲三方に添柱を付した形のものである。
三光石
阿字池
12:40
三光石
推古天皇の時代、天皇の仰せにより、聖徳太子は3日間に渡り勝鬘経講讃を執り行いました。
その時、聖徳太子の冠から日月星の光が輝いたと伝えられています。
阿字池
梵字「あ」を形取り聖徳太子が作られたと伝えられている。
亀石
12:49
長さ3.6メートル、幅2.1メートル、高さ1.8メートルの巨大な花崗岩に亀に似た彫刻が彫られていることからこの名前で呼ばれている。
高松塚古墳(特別史跡)
13:03
中尾山古墳と文武天皇陵との中間の丘陵南斜面に位置する。墳丘は直径23メートル、高さ5メートル程度の二段築成の円墳であり、昭和47年3月21日に極彩色の壁画が発見され一大センセーションをまき起こした。古墳は国の特別史跡に、壁画は国宝に指定されている。内部は横口式石槨で、内法の長さは2.6メートル、巾1メートル、高さ1.1メートルであり、凝灰岩の切石をもって築造されている。石槨内は漆喰が全面に塗られ、壁面には彩色壁画が描かれ、漆塗木棺が埋納されていた。南面より盗掘を受けていたが、出土遺物として、人骨以外には金銅装棺金具、海獣葡萄鏡一面、銀装大刀外装具などが検出された。これらは正倉院御物などに文化史的に近いものである。特に葡萄鏡は中国の西安市の唐墓から出土した鏡と同じ鋳型で製作された同笵鏡であることが分かり注目される。壁画は、側壁面に男女人物群像、四神、日月、天井部に星宿が描かれていたが、その根本は中国の伝統的な思想を背景にしたものであり、高句麗、唐の影響が顕著に認められている。
文武天皇陵
13:05
鬼の雪隠
13:19
鬼の俎
13:21
「その昔、後ろの山に住んでいた鬼が、霧を降らせて通行人を迷わせ、捕らえて俎で料理しては、雪隠で用をたした」という伝説が残るが、実は崩壊した横口式石槨の石室(雪隠)と底石(俎)である。石室の内法幅は1.53m、高さ1.3mで、底石(俎)は長さ4.47mm、幅2.65mm、厚さ約1m。
欽明陵の陪塚の一つが崩れ落ちたものと推測されているが、一方では未完成のまま放置されたものとの説もある。
吉備姫王墓
男
僧(法師)
女
山王権現
13:28
欽明天皇陵の西側にある小円墳が比定されてはいるが、確定していない。吉備姫王は、皇極・孝徳天皇の母にあたる。この墓の西側の垣の中に猿石と呼ばれる花崗岩の石像が四体あることでも有名である。この猿石は、18世紀初め頃に付近の水田から掘り出されたとされているが、この場所を欽明天皇陵のすぐ南側に存在し、古代の苑池の遺構としての性格も考えられている平田キタガワ遺跡にあてる説もあるが定かではない。製作年代や目的・用途は不明である。
欽明天皇陵
13:30
鬼の俎
13:33
ちょっと撮影角度に納得いかなかったので、帰りに再度いきました。
天武・持統天皇陵(野口王墓・檜隈大内陵)
13:39
全景
13:43
古墳時代終末期の八角墳。天武・持統天皇陵に比定・治定されている。
宮内庁発行の『陵墓要覧』による陵名は檜隈大内陵。日本書紀には「大内陵」と記述される。
墳丘は東西約58メートル、南北径45メートル、高さ9メートルの円墳状である。
本来の墳形は八角形・五段築成、周囲に石段をめぐらすとされる。2室からなる切石積みの石室があり、天武天皇の夾紵棺と持統天皇の金銅製骨蔵器が納められているとされている。本古墳は、天皇が埋葬された古墳として考えてよく、被葬者の実在性も問題がない。治定が信頼できる数少ない古代の陵墓である。
甘樫丘から明日香を望む
14:00
甘樫丘から飛鳥板蓋宮
跡
14:02
甘樫丘から大和三山
14:11
左:畝傍山
中央:耳成山
右:天香具山
この三山に囲まれた地域が藤原京の中心。
藤原京は、中国の都城制を模して造られた日本初の本格的な都城でした。持統天皇が飛鳥から藤原の地に都を遷したのは694年のこと。新たな都の造営は、亡き夫・天武天皇を意志を受け継いだ中央集権国家の確立には欠かせない一代事業でした。その大きさは、東西方向約5.3km、南北方向4.8kmで、平城京、平安京をしのぐ古代最大の都です。藤原京時代には大宝律令が制定され、貨幣も発行されました。初めて「日本」という国号を使用したのも藤原京を発した遣唐使でした。
飛鳥水落遺跡 (史跡)
14:20
飛鳥川の東岸、飛鳥寺の北西に位置し、飛鳥寺の寺域の北西隅の西方が水落遺跡、その北が石神遺跡である。水落遺跡は、7世紀後半の建物の礎石群のある方形基檀を持つ遺跡である。基壇(一辺約22.5メートル、高さ約1メートル)は自然石を三~四段積み上げた正方形のもので、周囲に底幅1.8メートルの濠状の溝を回す。この基壇の上に、方四間総柱(柱芯一辺11メートル)の楼閣が建っていたものと見られる。基檀中央に据えたママ石には、柱の底をかませたくり込みがあり、さらに礎石には、縦横斜めにも梁石を連結させ、堅固に据えている。基檀中央には台石に据えた漆塗の箱を設置し、これに向かって八釣川から導水した木樋暗渠や、サイホン方式の桶水に用いられたと見られる銅製の銅管が検出され、また冬季には氷結防止のため温めていたらしく、炭が出土している。これが漏刻と漏刻台と考えられている。
大官大寺跡 (史跡)
14:23
日本書紀によると、聖徳太子によって平群に創建された「熊凝精舎」を、舒明天皇が百済川畔に移し、「百済大寺」といい、次いで天武天皇は天武2年(673年)に、この飛鳥の地に移し「高市大寺」といったが、同6年(677年)、天皇の寺という意味の「大官大寺」と改称したとある。しかし、発掘調査の結果、現在の大官大寺跡の伽藍は、文武朝のものであることが確認され、書紀に記された天武朝の高市大寺は別にあったと考えられ、7世紀後半~末にかけて国家の経営する大寺として、雄姿を誇り朱鳥元年(686年)には天武天皇の病気回復の祈願が行われ、持統天皇の時梵鐘を鋳造、文武天皇の時には九重塔や金堂が完成し飛鳥の大寺院の一つとして荘厳をきわめたといわれる。特に塔は方五間、講堂は正面九間、側面四間もある雄大な規模を有したものであった。その後、平城遷都とともに寺籍を新都に移し大安寺となり、旧寺は和銅4年(711年)藤原京の大火で焼失し、以後、寺地は田畑や民家と化してしまった。それでも明治中期までは金堂跡と塔跡が残り礎石も残っていたが、明治22年橿原神宮造営の際、運び去られ、現在その面影を伝えるものは、わずかに残った土壇のみとなっている。
大伴夫人の墓
14:33
大伴夫人は、大伴咋の娘・智仙娘で、中臣御食子の妻となって鎌足を生んだ。
岡本寺
14:43
岡本寺は、明日香村大字岡という、明日香村随一の集落地、岡の農家の立ち並ぶ一隅にあります。バス停「岡寺前」から岡寺に向かう途中左側、寺域七十坪の堂宇が岡本寺本堂です。飛鳥時代、舒明天皇の岡本宮ともいわれる旧蹟を伽藍として、「岡本寺」としたとも伝えられ、現在の本堂は昭和六十三年(1988)に修復されました。
なお、岡寺の近くにあるのは岡本寺の道場。
阿字石
14:44
マラ石
14:50
明日香村にある謎の石造物の一つ。男性器を模したもので本来は真すぐに立っていたとも言われている。地元では、飛鳥川をはさんだ対岸の丘陵を「フグリ山」と呼び「マラ石」と一対のものと考える説もある。
子孫繁栄や農耕信仰に関係した遺物と考えることもできよう。
国営飛鳥歴史公園祝戸地区への入口付近にあり、男性の陰茎を思わせる石が斜めに突き立っている。仏教考古学者の石田茂作によりマラ石と命名された。
フグリ山
14:51
石舞台古墳
14:58
戻ってきました。
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明日香村散策1はこちら
12:25
川原寺は、創建の年代、経過については明らかではないが、飛鳥朝極めて重要な意義を持っていた寺院である。 まず、創建の時期については敏達天皇13年説、斉明天皇元年説、斉明天皇7年説、天武天皇朝あるいは奈良時代の宝亀5年説などがあって、必ずしも明確でない。しかし、天武紀2年3月の条に「是月聚書生始写一切経於川原寺」とある。したがって以上の内容と合わせて、天武期に存在したことは確かである。ただし、従来からも問題となっている孝徳紀白雉4年6月の条の僧旻法師の遷化に関する記事の中に「安置川原寺」とあるが、その割註に「或本云在山田寺」とあることから、川原寺か山田寺かどちらか不詳である。しかし、天武朝以後、奈良朝にかけてかなり勢力をもった寺院であったことは容易に知られる。すなわち天武紀14年8月甲戌朔丙戌に「幸于川原寺施稲於衆僧」とあり、同9月丁卯の天皇の病気平癒祈願のために「桶経於大官大寺・川原寺・飛鳥寺。因以稲納三寺」とあり、朱鳥元年4月壬午の条には「為饗新羅客等、運川原寺伎楽於筑紫、仍以皇后宮之私稲五千束、納于川原寺」とあり、川原寺に伎楽が置かれていたことがわかる。また、同5月癸亥には「天皇体不安、因以於川原寺説薬師経」、同6月丁亥には「勅遣百官人等於川原寺為燃燈供養、仍大斎之悔過也」とあり、9月辛丑には「悉集川原寺為天皇病誓願」とある。したがって天武天皇の病気平癒を祈願するため、川原寺において盛んに法会が行われたことが知られる。その甲斐なく天皇崩御の後、持統即位前紀12月乙酉の条に「奉為天渟中原瀛真人天皇設無遮大会於五寺」とあり、その中に川原寺の名が挙げられている。こうしたことより川原寺は天武天皇と特別な関係にあったことが推定される。
12:27
道を挟んだ反対側の小高いところに橘寺がある。
創建の事情や年代については明確ではないが、聖徳太子伝暦によれば太子がこの地で勝鬘経(しょうまんきょう)を講ぜられたとき、瑞祥があり、それによって仏堂を建立したとある。従来から問題視されている史料としては、河内野中寺の弥勒像の丙寅(天智天皇5年-666)の紀年銘に「橘寺智識之等(詣)中宮天皇大御身労坐之時、誓願之奉弥勒御像也」とある。また法隆寺東院資材帳によると推古天皇14年7月、「天皇詔太子日、於朕前講説勝鬘経、則依詔太子講説三日、講竟夜蓮花零、花長二三尺溢方三四丈之地、則其地誓立寺院、是今菩提寺也」とある。推古14年という年代についてどの程度の信憑性がるかは別として、天武紀9年夏4月、「乙卯(十一月)、橘寺尼房失火、以焚十房」とあり、また類従国史には延暦14年4月20日の条に「大和国稲二千束施入菩提寺以遭火災也」とある。さらに上宮太子拾遺記には久安4年(1148)に塔が雷火のため焼失したと伝える。これらの記事によると再三災厄をうけたらしい。平安朝になって、治安3年藤原道長が参詣し、享徳元年の古記のある南都七大寺巡礼記には、伽藍の構成などを挙げている。
12:28
川原寺の金堂跡地には、江戸時代中期に現在の弘福寺が建立され川原寺の法灯を継いでいる。
12:30
12:34
橘寺は、正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」と称し、本尊は聖徳太子・如意輪観音。
橘寺の付近には聖徳太子が誕生したとされる場所があり、寺院は太子建立七大寺の1つとされている。
太子が父用明天皇の別宮を寺に改めたのが始まりと伝わる。
当初の建物は、東を正面として、中門、塔、金堂、講堂が東西に一直線に並ぶ、四天王寺式または山田寺式の伽藍配置だったことが判明している。
本堂(太子堂)は元治元年(1864年)に再建された建物で、本尊として聖徳太子坐像が安置されている。
12:35
二面石 境内にある高さ約1mほどの石造物で、左右に善相と悪相が彫られており、人の心の二面性を表現している。
12:39
落雷で焼失。塔心礎(心柱の礎石)が僅かに往時を偲ばせる。心礎の柱孔は円柱の周囲三方に添柱を付した形のものである。
12:40
三光石
推古天皇の時代、天皇の仰せにより、聖徳太子は3日間に渡り勝鬘経講讃を執り行いました。
その時、聖徳太子の冠から日月星の光が輝いたと伝えられています。
阿字池
梵字「あ」を形取り聖徳太子が作られたと伝えられている。
12:49
長さ3.6メートル、幅2.1メートル、高さ1.8メートルの巨大な花崗岩に亀に似た彫刻が彫られていることからこの名前で呼ばれている。
13:03
中尾山古墳と文武天皇陵との中間の丘陵南斜面に位置する。墳丘は直径23メートル、高さ5メートル程度の二段築成の円墳であり、昭和47年3月21日に極彩色の壁画が発見され一大センセーションをまき起こした。古墳は国の特別史跡に、壁画は国宝に指定されている。内部は横口式石槨で、内法の長さは2.6メートル、巾1メートル、高さ1.1メートルであり、凝灰岩の切石をもって築造されている。石槨内は漆喰が全面に塗られ、壁面には彩色壁画が描かれ、漆塗木棺が埋納されていた。南面より盗掘を受けていたが、出土遺物として、人骨以外には金銅装棺金具、海獣葡萄鏡一面、銀装大刀外装具などが検出された。これらは正倉院御物などに文化史的に近いものである。特に葡萄鏡は中国の西安市の唐墓から出土した鏡と同じ鋳型で製作された同笵鏡であることが分かり注目される。壁画は、側壁面に男女人物群像、四神、日月、天井部に星宿が描かれていたが、その根本は中国の伝統的な思想を背景にしたものであり、高句麗、唐の影響が顕著に認められている。
13:05
13:19
13:21
「その昔、後ろの山に住んでいた鬼が、霧を降らせて通行人を迷わせ、捕らえて俎で料理しては、雪隠で用をたした」という伝説が残るが、実は崩壊した横口式石槨の石室(雪隠)と底石(俎)である。石室の内法幅は1.53m、高さ1.3mで、底石(俎)は長さ4.47mm、幅2.65mm、厚さ約1m。
欽明陵の陪塚の一つが崩れ落ちたものと推測されているが、一方では未完成のまま放置されたものとの説もある。
13:28
欽明天皇陵の西側にある小円墳が比定されてはいるが、確定していない。吉備姫王は、皇極・孝徳天皇の母にあたる。この墓の西側の垣の中に猿石と呼ばれる花崗岩の石像が四体あることでも有名である。この猿石は、18世紀初め頃に付近の水田から掘り出されたとされているが、この場所を欽明天皇陵のすぐ南側に存在し、古代の苑池の遺構としての性格も考えられている平田キタガワ遺跡にあてる説もあるが定かではない。製作年代や目的・用途は不明である。
13:30
13:33
ちょっと撮影角度に納得いかなかったので、帰りに再度いきました。
13:39
13:43
古墳時代終末期の八角墳。天武・持統天皇陵に比定・治定されている。
宮内庁発行の『陵墓要覧』による陵名は檜隈大内陵。日本書紀には「大内陵」と記述される。
墳丘は東西約58メートル、南北径45メートル、高さ9メートルの円墳状である。
本来の墳形は八角形・五段築成、周囲に石段をめぐらすとされる。2室からなる切石積みの石室があり、天武天皇の夾紵棺と持統天皇の金銅製骨蔵器が納められているとされている。本古墳は、天皇が埋葬された古墳として考えてよく、被葬者の実在性も問題がない。治定が信頼できる数少ない古代の陵墓である。
14:00
跡
14:02
14:11
左:畝傍山
中央:耳成山
右:天香具山
この三山に囲まれた地域が藤原京の中心。
藤原京は、中国の都城制を模して造られた日本初の本格的な都城でした。持統天皇が飛鳥から藤原の地に都を遷したのは694年のこと。新たな都の造営は、亡き夫・天武天皇を意志を受け継いだ中央集権国家の確立には欠かせない一代事業でした。その大きさは、東西方向約5.3km、南北方向4.8kmで、平城京、平安京をしのぐ古代最大の都です。藤原京時代には大宝律令が制定され、貨幣も発行されました。初めて「日本」という国号を使用したのも藤原京を発した遣唐使でした。
14:20
飛鳥川の東岸、飛鳥寺の北西に位置し、飛鳥寺の寺域の北西隅の西方が水落遺跡、その北が石神遺跡である。水落遺跡は、7世紀後半の建物の礎石群のある方形基檀を持つ遺跡である。基壇(一辺約22.5メートル、高さ約1メートル)は自然石を三~四段積み上げた正方形のもので、周囲に底幅1.8メートルの濠状の溝を回す。この基壇の上に、方四間総柱(柱芯一辺11メートル)の楼閣が建っていたものと見られる。基檀中央に据えたママ石には、柱の底をかませたくり込みがあり、さらに礎石には、縦横斜めにも梁石を連結させ、堅固に据えている。基檀中央には台石に据えた漆塗の箱を設置し、これに向かって八釣川から導水した木樋暗渠や、サイホン方式の桶水に用いられたと見られる銅製の銅管が検出され、また冬季には氷結防止のため温めていたらしく、炭が出土している。これが漏刻と漏刻台と考えられている。
日本書紀によると、聖徳太子によって平群に創建された「熊凝精舎」を、舒明天皇が百済川畔に移し、「百済大寺」といい、次いで天武天皇は天武2年(673年)に、この飛鳥の地に移し「高市大寺」といったが、同6年(677年)、天皇の寺という意味の「大官大寺」と改称したとある。しかし、発掘調査の結果、現在の大官大寺跡の伽藍は、文武朝のものであることが確認され、書紀に記された天武朝の高市大寺は別にあったと考えられ、7世紀後半~末にかけて国家の経営する大寺として、雄姿を誇り朱鳥元年(686年)には天武天皇の病気回復の祈願が行われ、持統天皇の時梵鐘を鋳造、文武天皇の時には九重塔や金堂が完成し飛鳥の大寺院の一つとして荘厳をきわめたといわれる。特に塔は方五間、講堂は正面九間、側面四間もある雄大な規模を有したものであった。その後、平城遷都とともに寺籍を新都に移し大安寺となり、旧寺は和銅4年(711年)藤原京の大火で焼失し、以後、寺地は田畑や民家と化してしまった。それでも明治中期までは金堂跡と塔跡が残り礎石も残っていたが、明治22年橿原神宮造営の際、運び去られ、現在その面影を伝えるものは、わずかに残った土壇のみとなっている。
大伴夫人は、大伴咋の娘・智仙娘で、中臣御食子の妻となって鎌足を生んだ。
14:43
岡本寺は、明日香村大字岡という、明日香村随一の集落地、岡の農家の立ち並ぶ一隅にあります。バス停「岡寺前」から岡寺に向かう途中左側、寺域七十坪の堂宇が岡本寺本堂です。飛鳥時代、舒明天皇の岡本宮ともいわれる旧蹟を伽藍として、「岡本寺」としたとも伝えられ、現在の本堂は昭和六十三年(1988)に修復されました。
なお、岡寺の近くにあるのは岡本寺の道場。
14:44
14:50
明日香村にある謎の石造物の一つ。男性器を模したもので本来は真すぐに立っていたとも言われている。地元では、飛鳥川をはさんだ対岸の丘陵を「フグリ山」と呼び「マラ石」と一対のものと考える説もある。
子孫繁栄や農耕信仰に関係した遺物と考えることもできよう。
国営飛鳥歴史公園祝戸地区への入口付近にあり、男性の陰茎を思わせる石が斜めに突き立っている。仏教考古学者の石田茂作によりマラ石と命名された。
14:51
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by hobohitoritabi
| 2013-01-02 12:18
| 近畿
明日香村散策1
11月19日
談山神社の後、明日香村を散策しました。
昔自転車で回った思い出がありますが、今回は原チャリで回る予定。
大原神社
10:30
大原の里 -藤原鎌足誕生地-
藤原鎌足は、「大織冠伝」(760年頃成立)によると、推古天皇22年(614)大倭(大和)国高市郡の人として、藤原の第(邸宅)に生れたと記されている。藤原は、現在のここ明日香村小原の地である。
すぐ右手の田圃には、明治初年まで「藤原寺」(鎌足誕生堂)が立っていて、江戸時代後期に、国学者本居宣長も訪れている。
飛鳥坐神社より通じるこの道は、ここから東へ上ること約4kmの山頂にある鎌足を祀る「談山神社」への表参道である。
ここ大原神社の奥の竹田川のほとりには、「藤原鎌足産湯の井戸」、左手の森には、鎌足の母「大伴夫人」
の墓がある。
また、当神社の正面左手には、天武天皇と鎌足の娘の藤原夫人との間に交わされた、万葉集の歌二首を刻んだ石碑がある。
平成十八年(2006年)一月
明日香村小原
藤原鎌足顕彰会
ここでいう藤原夫人は藤原鎌足の娘、五百重娘(大原大刀自)のこと。
壬申の乱の後に天武天皇の妃となり、新田部皇子をもうけた。天皇の崩御後、異母兄の不比等との間に麻呂をもうけた。
10:31
石舞台古墳(特別史跡)
10:32
石舞台古墳は、細川谷に入っていく渓口部に築造された一辺約50メートルの大方墳で、飛鳥所在古墳の代名詞になる著名な古墳である。この古墳は、古くから石室天井部の石が露出していて、『西国三十三所名勝図会』などに旧態が描き出されており、『和州旧跡考』には「その近き所に石太屋とて陵あり」との記事がみられる。明治末年、喜田貞吉博士によって蘇我馬子桃原墓と推定されたりしていた(喜田貞吉「蘇我馬子桃原墓の推定、稀有の大石槨島の庄の石舞台の研究」歴史地理19-4、明治45年)が、日本学術振興会から費用の援助を得て、昭和8年1月5日より、奈良県史蹟調査会と京都帝国大学考古学教室の共同で、浜田耕作博士が総括責任者、末永雅雄博士を現地主任にして石室を中心に発掘調査が始められた。続いて昭和10年4月より、墳丘基底部の周湟と外堤の調査が行われ、昭和10年12月24日文部大臣より史蹟としての指定を受け、更に昭和27年3月29日、特別史跡の指定を受けている。それにともない昭和29年より33年にかけて湟及び外堤の復原工事が行われ、東北隅の湟の上を通っていた県道も湟外にそって迂回されることとなった。
10:53
明日香レンタサイクル 石舞台営業所でバイクを借りる。
2年ぶりの原チャリかな。
岡寺
10:58
真言宗豊山派の寺院。山号は東光山、寺号は龍蓋寺とも称し、正式には東高山真珠院龍蓋寺という。本尊は如意輪観音。西国三十三箇所第7番札所。
天武天皇の皇子で27歳で早世した草壁皇子の住んだ岡宮の跡に義淵僧正が創建したとされる。
寺の西に隣接する治田神社境内からは奈良時代前期にさかのぼる古瓦が発掘されており、創建当時の岡寺は現在の治田神社の位置にあったものと推定されている。
平成17年(2005年)に「岡寺跡」として国の史跡に指定された。
現在では真言宗豊山派の寺院だが、義淵僧正は日本の法相宗の祖であり、その門下には東大寺創建に関わった良弁や行基などがいた。義淵僧正が法相宗の祖とされていたため、江戸時代までは興福寺の末寺であった。江戸時代以降は長谷寺の末寺となった。
仁王門(重要文化財)
慶長17年(1612)建立。埋蔵文化財の宝庫といわれる明日香村において建造物で唯一、重要文化財に指定されているのは、岡寺のこの仁王門と書院だけ。
11:01
本堂
11:02
現在の本堂は棟札などから、文化2年(1805)の上棟ですべての完成迄に30年以上かかった事が判明。4mを超える本尊が安置されているお堂であり境内の中でもひときわ目立つお堂。
初午の開運厄除護摩供大般若法要など主な法要はこの本堂で勤修されている。
楼門
11:02
奈良県指定文化財。
書院(重要文化財)の前方に建つ入母屋造の楼門。古くは内部に鐘を吊っていた鐘楼門であったが、過去の古い写真等を見ると、この2階部分には現在本堂にて陳列している平安時代作の兜跋毘沙門天が祀られていた事が判明。
建立年代は仁王門に転用されている古材と同種の痕跡をもつ部材が多く使われている事からこの楼門も仁王門と同様に慶長年間(1596~1615)頃の建立と考えられている。
独特の形式を持つ小型の鐘楼門として大変珍しい遺構であるといわれている。
開山堂
11:02
本堂の西側に軒を接して建つ妻入り三間堂。阿弥陀三尊を安置。
多武峰妙楽寺(現、談山神社)より移築されたお堂で、元は護摩堂であったと伝わる。移築の際、屋根の形状が桧皮ぶきから瓦葺きに変更されたが、その影響でお堂自体にかなりの負担がかかり痛んでいたので、その負担を無くし、なおかつ元の形状に戻す為、平成16年よりおよそ2年の月日をかけ解体修理を行い、現在は元の姿に。
この解体修理では建立年代と思われる『寛政9年』の墨書きが発見され、また移築当時の棟札も発見され、明治4年に当寺に移築されたことが明らかになる。この前年の明治3年には廃仏毀釈の運動がふきあれ、その影響で岡寺に移築されたと考えられている。
鐘楼
11:03
正確な建立年代は不明。梵鐘には文化5年(1808)と刻まれており、建築様式などから本堂と同時期に再建されたものと思われる。
十三重塔
11:08
書院(重要文化財)
11:08
国指定の重要文化財。普段は非公開。
仁王門と同じく明日香村で建造物として唯一重要文化財。
この書院は奈良県下では数少ない書院建築として重要視されており、昭和61年に重要文化財の指定を受けた。
三重塔
11:09
古来三重宝塔は旧境内地(現治田神社境内)に建っていたが、文明4年(1472)7月21日の大風により倒壊してしまった。翌年から早速勧進が進められたが、完成をみず、やがて解体転用されることになったた。
創建当時の塔についての詳細は分かっていないが鎌倉時代初期に岡寺に三重塔があったことが『諸寺建立次第』によって明らかにされている。
その後も復興される事なく長い月日が経ちますが、昭和59年の弘法大師千百五十年御遠忌を契機に復興に着手、昭和61年に実に514年ぶりに再建。そして平成6年より三重宝塔の荘厳として扉絵・壁画・琴などの作成に着手し、平成13年に完成。
仁王門
11:15
史跡岡寺跡(治田神社)
11:16
岡寺(龍蓋寺)は義淵僧正によって建立されたと伝えられている寺院であるが、創建当初の伽藍は仁王門の西方、ここ治田神社境内地にあったと考えられている。境内地には礎石がいくつか残っており、拝殿の地覆石には凝灰岩の切石が使われている。また、古瓦の散布もみられることから、このあたりに古代の建物があったことは間違いない。昭和57年には橿原考古学研究所によって発掘調査が行われており、基礎建物の北端を画したと思われる凝灰岩の切石ガ4.5mほど並び、その東端に階段があったらしいこともわかっている。その他の建物や伽藍配置については不明であるが、岡寺所蔵の寛文年間(1661-1672)の絵図には、治田神社付近に金堂や講堂・塔の跡地が描かれている。発掘調査で見つかった建物は、南向きに建つ7間×4間の金堂と推定される。
治田神社本殿
11:17
祭神
応神天皇 素戔嗚尊 大物主命
由緒沿革
創建は明らかではないが、延喜式巻十の延喜式神明帳の式内社とされているので、平安時代(10世紀)には社があったことがわかる。さらに境内地からは凝灰石の基壇や礎石、瓦が出土することから、8世紀初頭の岡寺(龍蓋寺)創建伽藍があったと推測されており、寺の鎮守神として、境内に祀られていた可能性がある。この鎮守神を祀ったのが、後に治田神社になったとも考えられる。
元々は治田氏の祖神が奉祀されていた。文安年間(1444年~1448年)に一時大国主命の和魂である大物主命を奉祀されたことが古書にある。さらに社名を八幡宮と称して応神天皇を奉祀し今日に至っている。
酒船石(史跡)
11:24
この石造物は、現状では長さ5.5メートルで幅2.3メートル、高さ1メートルで花崗岩でできている。北側及び南側の一部は欠損しており、近世にどこかへ運び出されたものと考えられ、石割りの工具跡が残っている。石の上面に、円や楕円の浅いくぼみを造って、これを細い溝で結んでいる。酒をしぼる槽とも、あるいは油や薬を作るための道具ともいわれている。しかし、この石の東40mのやや高いところで、ここへ水を引くための土管や石樋がみつかっていることから庭園の施設だという説もある。
明日香村
飛鳥保存財団
飛鳥坐神社
11:34
創建の由緒は不詳であるが、『出雲國造神賀詞』に「賀夜奈流美命ノ御魂ヲ飛鳥ノ神奈備ニ坐テ皇孫命ノ近守神ト貢置」とあり、大国主神が皇室の近き守護神として、賀夜奈流美命の神霊を飛鳥の神奈備に奉斎したとある。また『日本書紀』朱鳥元年(686年)7月の条に「奉幣 於居紀伊国国懸神 飛鳥四社 住吉大社」とあり、天武天皇の病気平癒祈願のため幣帛が奉られた。『日本紀略』によれば、天長6年(829年)、神託により、現在の鳥形山へ遷座した。(遷座する前の場所については諸説ある)
寛永17年(1640年)に高取城に入った高取藩初代藩主・植村家政は、高取城の鬼門に当たる当社を深く信仰した。享保10年(1725年)に里からの火災により社殿の大半を焼失したため、天明元年(1781年)に高取藩8代藩主・植村家利により再建された。平成13年(2001年)再建から200年を経て社殿が老朽化してきたことから、吉野の丹生川上神社上社が大滝ダム建設に伴い移築するに際し、旧社殿を譲り受け再建した。
神楽殿と西良殿
11:35
拝殿
11:36
拝殿から本殿
11:37
八幡神社本殿と拝殿
11:38
このほか、たくさんの合祀された神社がありました。
飛鳥寺
11:57
蘇我氏の氏寺で、日本最古の本格的寺院でもある法興寺の後身である。
本尊は「飛鳥大仏」と通称される釈迦如来、開基は蘇我馬子。
11:58
飛鳥寺は飛鳥寺跡として史跡に指定されている。
飛鳥寺は飛鳥時代、飛鳥地方における最大の寺院であり、法興寺、元興寺とも称されていた。日本書紀によれば、崇峻天皇元年の条にあるように即位前紀に厩戸皇子、蘇我馬子(大臣)らが物部守屋(大連)を攻めた際、大臣は「凡諸天皇、大神王等、助衛於我、使獲利益、願当奉為諸天興大神王、起立寺塔、流通三宝」と戦勝を祈願し、その目的が成就したので「依本願、於飛鳥地、起法興寺」とあるに由来する。かくして、法興寺の起工が行われ、崇峻天皇3年冬10月に「入山取寺材」とあり、崇峻天皇5年冬10月・推古紀元年春正月壬辰朔丙辰にもみえるように塔婆の建立も着々進捗していた様子を知ることができる。また約5年後の推古紀4年冬11月の条の記載によれば、このとき、寺院の建築が一応完成し、僧二人が飛鳥寺に住することになった事情が判明する。しかしその時点では、まだ本尊の鋳造安置は未完成であったらしい。推古紀14年夏4月乙酉朔壬辰からは、約1ヵ年の歳月をかけて本尊丈六銅像と繍仏を製作したことがわかる。これらのことは『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』にみえる「露盤銘」や、「丈六釈迦光背銘」などに、ほぼ同じ内容のことが記載されている。
蘇我入鹿首塚
12:00
後ろの丘が蘇我氏の邸宅のあった甘樫丘。
入鹿首塚から飛鳥寺
12:00
いうまでもなく、飛鳥寺は中大兄皇子(天智天皇)が、入鹿暗殺後戦備を整えるために入った寺。
亀形石造物
12:09
酒船石遺跡の北西に位置する謎の石造物。
1999年に発見された。
全長2.4m、幅2mの亀形を呈する。顔を南向きにして据えられていた。丸く彫られた両目、4本の指の表現が施された両足が特徴的である。甲羅部分は円形の凹型になっており、水を溜める仕組みであったことがわかる。水は鼻の穴から甲羅部分に流れ込み、V字状に彫り窪められ表現された尻尾の部分から流れ出すようになっている。亀形石槽のすぐ南側には小判形(船形)に彫り込まれた水槽を有する石造物が、さらに南側にこれら石造物に水を供給していたと思われる湧水施設がみつかっている。斉明天皇が信仰した道教の世界を表す両槻宮の一部ではないかとか、政治を占う施設とか、身を浄める場所とかさまざまな説がある。出土した土器などから7世紀中頃~10世紀の間にかけて利用されていたことが確認されている。
伝飛鳥板蓋宮跡 (史跡) 12:19
飛鳥板蓋宮とは、皇極天皇、斉明天皇の皇居。天皇は、皇極二年に小墾田宮から新しく造営されたこの宮へ移った。当時の宮が茅葺、桧皮葺であったのに対して、板蓋であったため、この名がついたと思われる。飛鳥板蓋宮は、「大化の改新」の幕開けとなる蘇我臣入鹿の中大兄皇子等による暗殺の舞台となった。
向こうに見えるのが甘樫丘。
字数制限に引っかかったので、ここらでいったん終わります。
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談山神社の後、明日香村を散策しました。
昔自転車で回った思い出がありますが、今回は原チャリで回る予定。
10:30
大原の里 -藤原鎌足誕生地-
藤原鎌足は、「大織冠伝」(760年頃成立)によると、推古天皇22年(614)大倭(大和)国高市郡の人として、藤原の第(邸宅)に生れたと記されている。藤原は、現在のここ明日香村小原の地である。
すぐ右手の田圃には、明治初年まで「藤原寺」(鎌足誕生堂)が立っていて、江戸時代後期に、国学者本居宣長も訪れている。
飛鳥坐神社より通じるこの道は、ここから東へ上ること約4kmの山頂にある鎌足を祀る「談山神社」への表参道である。
ここ大原神社の奥の竹田川のほとりには、「藤原鎌足産湯の井戸」、左手の森には、鎌足の母「大伴夫人」
の墓がある。
また、当神社の正面左手には、天武天皇と鎌足の娘の藤原夫人との間に交わされた、万葉集の歌二首を刻んだ石碑がある。
平成十八年(2006年)一月
明日香村小原
藤原鎌足顕彰会
ここでいう藤原夫人は藤原鎌足の娘、五百重娘(大原大刀自)のこと。
壬申の乱の後に天武天皇の妃となり、新田部皇子をもうけた。天皇の崩御後、異母兄の不比等との間に麻呂をもうけた。
10:32
石舞台古墳は、細川谷に入っていく渓口部に築造された一辺約50メートルの大方墳で、飛鳥所在古墳の代名詞になる著名な古墳である。この古墳は、古くから石室天井部の石が露出していて、『西国三十三所名勝図会』などに旧態が描き出されており、『和州旧跡考』には「その近き所に石太屋とて陵あり」との記事がみられる。明治末年、喜田貞吉博士によって蘇我馬子桃原墓と推定されたりしていた(喜田貞吉「蘇我馬子桃原墓の推定、稀有の大石槨島の庄の石舞台の研究」歴史地理19-4、明治45年)が、日本学術振興会から費用の援助を得て、昭和8年1月5日より、奈良県史蹟調査会と京都帝国大学考古学教室の共同で、浜田耕作博士が総括責任者、末永雅雄博士を現地主任にして石室を中心に発掘調査が始められた。続いて昭和10年4月より、墳丘基底部の周湟と外堤の調査が行われ、昭和10年12月24日文部大臣より史蹟としての指定を受け、更に昭和27年3月29日、特別史跡の指定を受けている。それにともない昭和29年より33年にかけて湟及び外堤の復原工事が行われ、東北隅の湟の上を通っていた県道も湟外にそって迂回されることとなった。
明日香レンタサイクル 石舞台営業所でバイクを借りる。
2年ぶりの原チャリかな。
10:58
真言宗豊山派の寺院。山号は東光山、寺号は龍蓋寺とも称し、正式には東高山真珠院龍蓋寺という。本尊は如意輪観音。西国三十三箇所第7番札所。
天武天皇の皇子で27歳で早世した草壁皇子の住んだ岡宮の跡に義淵僧正が創建したとされる。
寺の西に隣接する治田神社境内からは奈良時代前期にさかのぼる古瓦が発掘されており、創建当時の岡寺は現在の治田神社の位置にあったものと推定されている。
平成17年(2005年)に「岡寺跡」として国の史跡に指定された。
現在では真言宗豊山派の寺院だが、義淵僧正は日本の法相宗の祖であり、その門下には東大寺創建に関わった良弁や行基などがいた。義淵僧正が法相宗の祖とされていたため、江戸時代までは興福寺の末寺であった。江戸時代以降は長谷寺の末寺となった。
慶長17年(1612)建立。埋蔵文化財の宝庫といわれる明日香村において建造物で唯一、重要文化財に指定されているのは、岡寺のこの仁王門と書院だけ。
11:02
現在の本堂は棟札などから、文化2年(1805)の上棟ですべての完成迄に30年以上かかった事が判明。4mを超える本尊が安置されているお堂であり境内の中でもひときわ目立つお堂。
初午の開運厄除護摩供大般若法要など主な法要はこの本堂で勤修されている。
11:02
奈良県指定文化財。
書院(重要文化財)の前方に建つ入母屋造の楼門。古くは内部に鐘を吊っていた鐘楼門であったが、過去の古い写真等を見ると、この2階部分には現在本堂にて陳列している平安時代作の兜跋毘沙門天が祀られていた事が判明。
建立年代は仁王門に転用されている古材と同種の痕跡をもつ部材が多く使われている事からこの楼門も仁王門と同様に慶長年間(1596~1615)頃の建立と考えられている。
独特の形式を持つ小型の鐘楼門として大変珍しい遺構であるといわれている。
11:02
本堂の西側に軒を接して建つ妻入り三間堂。阿弥陀三尊を安置。
多武峰妙楽寺(現、談山神社)より移築されたお堂で、元は護摩堂であったと伝わる。移築の際、屋根の形状が桧皮ぶきから瓦葺きに変更されたが、その影響でお堂自体にかなりの負担がかかり痛んでいたので、その負担を無くし、なおかつ元の形状に戻す為、平成16年よりおよそ2年の月日をかけ解体修理を行い、現在は元の姿に。
この解体修理では建立年代と思われる『寛政9年』の墨書きが発見され、また移築当時の棟札も発見され、明治4年に当寺に移築されたことが明らかになる。この前年の明治3年には廃仏毀釈の運動がふきあれ、その影響で岡寺に移築されたと考えられている。
11:03
正確な建立年代は不明。梵鐘には文化5年(1808)と刻まれており、建築様式などから本堂と同時期に再建されたものと思われる。
11:08
11:08
国指定の重要文化財。普段は非公開。
仁王門と同じく明日香村で建造物として唯一重要文化財。
この書院は奈良県下では数少ない書院建築として重要視されており、昭和61年に重要文化財の指定を受けた。
11:09
古来三重宝塔は旧境内地(現治田神社境内)に建っていたが、文明4年(1472)7月21日の大風により倒壊してしまった。翌年から早速勧進が進められたが、完成をみず、やがて解体転用されることになったた。
創建当時の塔についての詳細は分かっていないが鎌倉時代初期に岡寺に三重塔があったことが『諸寺建立次第』によって明らかにされている。
その後も復興される事なく長い月日が経ちますが、昭和59年の弘法大師千百五十年御遠忌を契機に復興に着手、昭和61年に実に514年ぶりに再建。そして平成6年より三重宝塔の荘厳として扉絵・壁画・琴などの作成に着手し、平成13年に完成。
11:15
11:16
岡寺(龍蓋寺)は義淵僧正によって建立されたと伝えられている寺院であるが、創建当初の伽藍は仁王門の西方、ここ治田神社境内地にあったと考えられている。境内地には礎石がいくつか残っており、拝殿の地覆石には凝灰岩の切石が使われている。また、古瓦の散布もみられることから、このあたりに古代の建物があったことは間違いない。昭和57年には橿原考古学研究所によって発掘調査が行われており、基礎建物の北端を画したと思われる凝灰岩の切石ガ4.5mほど並び、その東端に階段があったらしいこともわかっている。その他の建物や伽藍配置については不明であるが、岡寺所蔵の寛文年間(1661-1672)の絵図には、治田神社付近に金堂や講堂・塔の跡地が描かれている。発掘調査で見つかった建物は、南向きに建つ7間×4間の金堂と推定される。
11:17
祭神
応神天皇 素戔嗚尊 大物主命
由緒沿革
創建は明らかではないが、延喜式巻十の延喜式神明帳の式内社とされているので、平安時代(10世紀)には社があったことがわかる。さらに境内地からは凝灰石の基壇や礎石、瓦が出土することから、8世紀初頭の岡寺(龍蓋寺)創建伽藍があったと推測されており、寺の鎮守神として、境内に祀られていた可能性がある。この鎮守神を祀ったのが、後に治田神社になったとも考えられる。
元々は治田氏の祖神が奉祀されていた。文安年間(1444年~1448年)に一時大国主命の和魂である大物主命を奉祀されたことが古書にある。さらに社名を八幡宮と称して応神天皇を奉祀し今日に至っている。
11:24
この石造物は、現状では長さ5.5メートルで幅2.3メートル、高さ1メートルで花崗岩でできている。北側及び南側の一部は欠損しており、近世にどこかへ運び出されたものと考えられ、石割りの工具跡が残っている。石の上面に、円や楕円の浅いくぼみを造って、これを細い溝で結んでいる。酒をしぼる槽とも、あるいは油や薬を作るための道具ともいわれている。しかし、この石の東40mのやや高いところで、ここへ水を引くための土管や石樋がみつかっていることから庭園の施設だという説もある。
明日香村
飛鳥保存財団
11:34
創建の由緒は不詳であるが、『出雲國造神賀詞』に「賀夜奈流美命ノ御魂ヲ飛鳥ノ神奈備ニ坐テ皇孫命ノ近守神ト貢置」とあり、大国主神が皇室の近き守護神として、賀夜奈流美命の神霊を飛鳥の神奈備に奉斎したとある。また『日本書紀』朱鳥元年(686年)7月の条に「奉幣 於居紀伊国国懸神 飛鳥四社 住吉大社」とあり、天武天皇の病気平癒祈願のため幣帛が奉られた。『日本紀略』によれば、天長6年(829年)、神託により、現在の鳥形山へ遷座した。(遷座する前の場所については諸説ある)
寛永17年(1640年)に高取城に入った高取藩初代藩主・植村家政は、高取城の鬼門に当たる当社を深く信仰した。享保10年(1725年)に里からの火災により社殿の大半を焼失したため、天明元年(1781年)に高取藩8代藩主・植村家利により再建された。平成13年(2001年)再建から200年を経て社殿が老朽化してきたことから、吉野の丹生川上神社上社が大滝ダム建設に伴い移築するに際し、旧社殿を譲り受け再建した。
11:35
11:36
11:37
11:38
このほか、たくさんの合祀された神社がありました。
11:57
蘇我氏の氏寺で、日本最古の本格的寺院でもある法興寺の後身である。
本尊は「飛鳥大仏」と通称される釈迦如来、開基は蘇我馬子。
飛鳥寺は飛鳥寺跡として史跡に指定されている。
飛鳥寺は飛鳥時代、飛鳥地方における最大の寺院であり、法興寺、元興寺とも称されていた。日本書紀によれば、崇峻天皇元年の条にあるように即位前紀に厩戸皇子、蘇我馬子(大臣)らが物部守屋(大連)を攻めた際、大臣は「凡諸天皇、大神王等、助衛於我、使獲利益、願当奉為諸天興大神王、起立寺塔、流通三宝」と戦勝を祈願し、その目的が成就したので「依本願、於飛鳥地、起法興寺」とあるに由来する。かくして、法興寺の起工が行われ、崇峻天皇3年冬10月に「入山取寺材」とあり、崇峻天皇5年冬10月・推古紀元年春正月壬辰朔丙辰にもみえるように塔婆の建立も着々進捗していた様子を知ることができる。また約5年後の推古紀4年冬11月の条の記載によれば、このとき、寺院の建築が一応完成し、僧二人が飛鳥寺に住することになった事情が判明する。しかしその時点では、まだ本尊の鋳造安置は未完成であったらしい。推古紀14年夏4月乙酉朔壬辰からは、約1ヵ年の歳月をかけて本尊丈六銅像と繍仏を製作したことがわかる。これらのことは『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』にみえる「露盤銘」や、「丈六釈迦光背銘」などに、ほぼ同じ内容のことが記載されている。
12:00
後ろの丘が蘇我氏の邸宅のあった甘樫丘。
12:00
いうまでもなく、飛鳥寺は中大兄皇子(天智天皇)が、入鹿暗殺後戦備を整えるために入った寺。
12:09
酒船石遺跡の北西に位置する謎の石造物。
1999年に発見された。
全長2.4m、幅2mの亀形を呈する。顔を南向きにして据えられていた。丸く彫られた両目、4本の指の表現が施された両足が特徴的である。甲羅部分は円形の凹型になっており、水を溜める仕組みであったことがわかる。水は鼻の穴から甲羅部分に流れ込み、V字状に彫り窪められ表現された尻尾の部分から流れ出すようになっている。亀形石槽のすぐ南側には小判形(船形)に彫り込まれた水槽を有する石造物が、さらに南側にこれら石造物に水を供給していたと思われる湧水施設がみつかっている。斉明天皇が信仰した道教の世界を表す両槻宮の一部ではないかとか、政治を占う施設とか、身を浄める場所とかさまざまな説がある。出土した土器などから7世紀中頃~10世紀の間にかけて利用されていたことが確認されている。
飛鳥板蓋宮とは、皇極天皇、斉明天皇の皇居。天皇は、皇極二年に小墾田宮から新しく造営されたこの宮へ移った。当時の宮が茅葺、桧皮葺であったのに対して、板蓋であったため、この名がついたと思われる。飛鳥板蓋宮は、「大化の改新」の幕開けとなる蘇我臣入鹿の中大兄皇子等による暗殺の舞台となった。
向こうに見えるのが甘樫丘。
字数制限に引っかかったので、ここらでいったん終わります。
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by hobohitoritabi
| 2013-01-02 09:56
| 近畿
談山神社 2012.11.19
2012.11.19
前週に引き続き、またまた行ってきました談山神社。
前週は、よんどころない事情でほぼとんぼ返り。
今回は明日香村も周ります。
明日香村
8:08
霜が日光にあたり溶けはじめていた。
ここで、レンズを替えたのだが、そのまま置き忘れてしまった。
談山神社へ行き、2時間後に気づき戻った時にはもうなかった。
橿原警察に電話で届を出していたら3,4日後に連絡があり、無事戻ってきた。
紛失したのはCANON EF70-200mm F4L IS USM。
今でも10万超えるレンズだったので、戻ってきて一安心。
鳥居
8:24
十三重塔
今日は青空に映えてビューティフォー
8:26
後ろの銀杏も実は散り始めなんやけど、この頃が十三重塔を撮るのがBESTかも。
楼門
8:33
境内の紅葉はまだ緑が勝っている。
8:34
拝殿と紅葉
8:34
8:35
総社拝殿
8:37
けまりの庭から神廟拝所十三重塔
権殿
8:38
銀杏
8:39
8:41
権殿
8:44
十三重塔
8:44
8:47
8:49
8:50
8:51 釣り燈籠と紅葉
8:57
本殿・東透廊
9:02
本殿・楼門・西透廊
9:02
9:03
9:05
何度も同じ場所の写真がありますが、くるくる回っているからです。
9:08 総社本殿
9:09
祓戸社
9:10
9:19
9:20 9:21
2012.11.12 2010.11.29
くもりと晴れの違いがありますが、十三重塔越しに紅葉を撮るなら11月20日前後が一番良いかもしれません。
2010.11.29はこちら
2012.11.12はこちら
9:53 9:54 9:55
次は明日香村
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前週に引き続き、またまた行ってきました談山神社。
前週は、よんどころない事情でほぼとんぼ返り。
今回は明日香村も周ります。
8:08
霜が日光にあたり溶けはじめていた。
ここで、レンズを替えたのだが、そのまま置き忘れてしまった。
談山神社へ行き、2時間後に気づき戻った時にはもうなかった。
橿原警察に電話で届を出していたら3,4日後に連絡があり、無事戻ってきた。
紛失したのはCANON EF70-200mm F4L IS USM。
今でも10万超えるレンズだったので、戻ってきて一安心。
8:24
今日は青空に映えてビューティフォー
8:26
8:33
境内の紅葉はまだ緑が勝っている。
8:34
8:37
8:38
8:39
8:44
8:44
8:57
9:02
9:02
何度も同じ場所の写真がありますが、くるくる回っているからです。
9:09
9:10
くもりと晴れの違いがありますが、十三重塔越しに紅葉を撮るなら11月20日前後が一番良いかもしれません。
2010.11.29はこちら
2012.11.12はこちら
次は明日香村
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by hobohitoritabi
| 2012-12-30 16:01
| 近畿
談山神社 2012.11.12
11月12日
談山神社へ行ってきました。
2010年11月29日に初めて行ったんやけど、十三重の塔のまわりの紅葉が終わっていて、今年は早めに来ました。2010年のときはこちら
権殿と本殿は工事中だったし、摩尼輪塔撮り忘れたっていうのもあるんやけど。
★おさらい
談山神社の重要文化財(建造物)は、
十三重塔
権殿
本殿
拝殿
東透廊
西透廊
楼門
東宝庫
西宝庫
摂社東殿
神廟拝所
閼伽井屋
末社惣杜本殿
末社惣社拝殿
末社比叡神社本殿
摩尼輪塔
前回撮り忘れた摩尼輪塔
7:22
十三重塔
8:25
本日天気予報は晴れだが、結構分厚い雲が。。。。。
拝殿前の紅葉
8:29
まだまだ、緑色
十三重塔
8:30
青空ならよかったのに。
一週間後ぐらいがBESTか?
西宝庫と楼門
8:31
権殿
8:33
前回工事中。
970年建立、現在のものは室町時代(永年)の再建。
平成23年5月に改修工事が終了。
8:34
けまりの庭から神廟拝所と十三重塔
8:34
本殿、西透廊、東透廊
8:38
こちらも前回工事中
拝殿から本殿
8:39
8:41
神廟拝所内部
8:48
神社前
8:55
十三重塔
9:06
拝殿、楼門
9:06
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談山神社へ行ってきました。
2010年11月29日に初めて行ったんやけど、十三重の塔のまわりの紅葉が終わっていて、今年は早めに来ました。2010年のときはこちら
権殿と本殿は工事中だったし、摩尼輪塔撮り忘れたっていうのもあるんやけど。
★おさらい
談山神社の重要文化財(建造物)は、
十三重塔
権殿
本殿
拝殿
東透廊
西透廊
楼門
東宝庫
西宝庫
摂社東殿
神廟拝所
閼伽井屋
末社惣杜本殿
末社惣社拝殿
末社比叡神社本殿
摩尼輪塔
7:22
8:25
本日天気予報は晴れだが、結構分厚い雲が。。。。。
8:29
まだまだ、緑色
8:30
青空ならよかったのに。
8:31
8:33
前回工事中。
970年建立、現在のものは室町時代(永年)の再建。
平成23年5月に改修工事が終了。
8:34
8:38
こちらも前回工事中
8:39
8:41
8:48
8:55
9:06
9:06
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by hobohitoritabi
| 2012-12-30 14:17
| 近畿
古都奈良の文化財13 東大寺五輪塔・圓成寺
13:37
自転車から車に乗り換え、奈良ロイヤルホテル発
三笠霊苑
13:52
ここに何をしに来たかというと、ここにもあるんですよね世界遺産。
東大寺五輪塔(重文・世界遺産)
14:00
奈良市川上町の三笠霊苑にある東大寺伴墓三角五輪塔のこと。
霊苑上部の12街区、13街区の向かい側にあります。
奈良の街並み
14:04
結構、上の方にあることがわかると思います。
歩いて登りましたが、車でもOKのようです。
興福寺の五重塔(国宝・世界遺産)
14:06
14:14三笠霊苑発
15:20圓成寺着
圓成寺
天平勝宝8(756)年、聖武・孝謙両天皇の勅願により、鑑真和上の弟子、唐僧虚瀧和尚の開創と円成寺縁起に書かれている。しかし、史実的には平安中期の万寿3(1026)年、命禅上人が十一面観音を祀られたのが始まりである。天永3(1112)年、迎接上人が阿弥陀堂を建て阿弥陀如来を安置。ついで仁平3(1153)年、仁和寺の寛遍僧正が東密(真言密教)の一派忍辱山流を始められた。文正元(1466)年、応仁の兵乱にかかり、建物の大半を失ったが、栄弘阿闍梨は伽藍の復興に努め、さらに文明13(1481)年、弟子連舜らと朝鮮に使して高麗版大蔵経を請来した。慶長14(1609)年、家康公の所望によりその大蔵経を献上したところ、江戸時代は将軍の殊遇を得て、寺領235石となり、寺中23寺を有する寺院であった。明治維新後、寺領を失い、今の境内と建物のみを残した。近年、本堂の解体修理と仏像の補修、庭園の整備を終え、多宝塔を再建して寺観を整えた。
国宝
春日堂・白山堂
重要文化財
本堂
楼門
宇賀神本殿
石造五輪塔
木造阿弥陀如来坐像
木造四天王立像
名勝
円成寺庭園 - 平安時代後期の作庭
伽藍
本尊阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂(本堂)が南面して建ち、その前に 楼門、一段下がって 阿弥陀信仰を象徴する 苑池、浄土庭園が広がっている。その線を軸として西側に東面して、大日如来を祀る多宝塔が建ち、東側に寺院の鎮守である春日堂・白山堂、宇賀神堂、それを拝む拝殿、そのそばに鐘楼が建っている。本堂西側には護摩堂、明治以降 元の観音堂跡に庫裡が建てられた。
本堂(重要文化財)
14:32
文正元年(1466)栄弘(えいこう)阿闍梨が旧本堂と同じ規模と様式で再建された。春日造社殿に両廂(ひさし)付で、局・宝蔵・経蔵・篭(こもり)堂・御堂を設け、向拝に舞台を付けた寝殿造で、内陣中央、方形に配した四本柱には、聖衆来迎(しょうじゅらいごう)二十五菩薩が描かれている。須弥壇の上は 折上格天井(おりあげごうてんじょう)、大檀の上は 小組格天井、そのまわりに 四方流化粧天井(しほうながれけしょうてんじょう)を張りめぐらして、藤原時代の阿弥陀堂を現している。供物棚の格狭間(こうざま)や柱根の反華座は創建時の逸品である。昭和36年 解体修理を完了した。 楼門(重要文化財)
14:32
文正元年(1466)応仁の兵火にかかって焼失し、応仁2年(1468)栄弘阿闍梨が再建したもの。三間一戸入母屋(いりもや)桧皮葺(ひわだぶき)で、上下層とも和様三手先を使っている。下層出入口の上に正・背面とも花肘木(はなひじき)を入れ、正面は蓮唐草浮彫(はすからくさうきぼり)の中央 蓮華上の月輪にキリク(梵字、阿弥陀如来を表す)を刻み、背面は牡丹唐草浮彫の中央 牡丹花上に宝珠を刻み、いずれも天竺式斗にのっている。明治39年(1906)特別建造物に指定され、大正4年(1915)天沼俊一博士の指導のもと、解体修理が行われた。
多宝塔
縁起に、後白河法皇の寄進で、本尊大日如来を運慶に仰せ付けたと記している。元多宝塔は応仁の兵火で焼かれ、二代目の塔は大正9年鎌倉に移譲し、三代目の塔は昭和61年から平成2年に亘って再建した。全国の篤志家のご寄進と檀信徒の写経、用材勧進の浄財を投じて建立し、運慶真作の大日如来像を安置している。
春日堂・白山堂 (国宝)
安貞2年(1228)奈良春日大社御造営のさい、当時の大社神主藤原時定卿が旧社殿を寄進した、全国で最も古い春日造社殿。表は入母屋、裏は切妻、桧皮葺で、棟木、千木、勝尾木をのせ、蟇股・懸魚(げぎょ)・勾欄(こうらん)・斗(ときょう)などは、鎌倉初期社殿の特色を現している。大正5年の解体修理のおりに堂内から発見された棟札(むなふだ)6枚(表裏合わせて8枚)は、鎮守社の沿革と円成寺の歴史を知る貴重な文献で、社殿とともに国宝に指定されている。
鐘楼
桁行梁行とも九尺、入母屋瓦葺で上半四方に連子窓をはめ、下半に袴垂を張ってある。寛文7年(1667)の再建で、昭和36年解体修理を施した。梵鐘は、昭和45年に寄進されたもの。
鎮守拝殿 (市指定文化財)
桁行三間半、梁行二間、入母屋柿(こけら)葺で延宝3年(1675)建立。平成7年解体修理を完了した。
北側には半蔀(しとみ)戸と舞良(まいら)戸、西側には諸折両開(もろおれりょうびらき)戸を設け、南側には窓を開く。西と北側に縁を廻している。
鎮守社 宇賀神本殿 (重要文化財)
宇賀神をまつる鎮守社。筆(書道)の神として信仰されている。鎌倉時代に建てられた春日造社殿の向拝を唐破風にした県内最古の社で、昭和25年解体修理を完了し面目を一新した。
護摩堂
享保年間に再建された護摩堂が老朽化したため 取り畳み、その跡に 平成6年、不動明王、弘法大師、文 殊菩薩を祀るお堂として建立した。毎月28日には、不動尊護摩供養がおこなわれている。
圓成寺庭園 (名勝)
楼門前にひろがる苑池を主とした庭園は、平安末期に寛遍僧正が、真言密教の教義であるバン字を基調として築造したと伝えられる。また藤原時代 阿弥陀堂の前につくられる浄土式庭園を基盤としたものであり、寝殿造系庭園の配置を備えた舟遊式庭園として、名勝に指定されている。昭和50、51年発掘調査、環境整備を完了した。
柳生街道
15:11
圓成寺から柳生街道を奈良市内に向かって5分弱歩きます。
すると六地蔵が見えてきます。
六地蔵
15:11
そこを左折すると最終目的地。圓成寺五輪塔があります。
圓成寺五輪塔(重要文化財)
15:13
石造五重塔 元亨元年辛酉六月日の刻銘がある
鎌倉時代末期元享元年の建立、奈良県下の五輪塔では最古の銘を有する。
15:20圓成寺発
17:39自宅着
行く予定だった、
喜光寺
西大寺
八幡神社
秋篠寺
霊山寺
は時間がなく、行けなかった。
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自転車から車に乗り換え、奈良ロイヤルホテル発
13:52
ここに何をしに来たかというと、ここにもあるんですよね世界遺産。
14:00
奈良市川上町の三笠霊苑にある東大寺伴墓三角五輪塔のこと。
霊苑上部の12街区、13街区の向かい側にあります。
14:04
結構、上の方にあることがわかると思います。
歩いて登りましたが、車でもOKのようです。
14:06
14:14三笠霊苑発
15:20圓成寺着
圓成寺
天平勝宝8(756)年、聖武・孝謙両天皇の勅願により、鑑真和上の弟子、唐僧虚瀧和尚の開創と円成寺縁起に書かれている。しかし、史実的には平安中期の万寿3(1026)年、命禅上人が十一面観音を祀られたのが始まりである。天永3(1112)年、迎接上人が阿弥陀堂を建て阿弥陀如来を安置。ついで仁平3(1153)年、仁和寺の寛遍僧正が東密(真言密教)の一派忍辱山流を始められた。文正元(1466)年、応仁の兵乱にかかり、建物の大半を失ったが、栄弘阿闍梨は伽藍の復興に努め、さらに文明13(1481)年、弟子連舜らと朝鮮に使して高麗版大蔵経を請来した。慶長14(1609)年、家康公の所望によりその大蔵経を献上したところ、江戸時代は将軍の殊遇を得て、寺領235石となり、寺中23寺を有する寺院であった。明治維新後、寺領を失い、今の境内と建物のみを残した。近年、本堂の解体修理と仏像の補修、庭園の整備を終え、多宝塔を再建して寺観を整えた。
国宝
春日堂・白山堂
重要文化財
本堂
楼門
宇賀神本殿
石造五輪塔
木造阿弥陀如来坐像
木造四天王立像
名勝
円成寺庭園 - 平安時代後期の作庭
伽藍
本尊阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂(本堂)が南面して建ち、その前に 楼門、一段下がって 阿弥陀信仰を象徴する 苑池、浄土庭園が広がっている。その線を軸として西側に東面して、大日如来を祀る多宝塔が建ち、東側に寺院の鎮守である春日堂・白山堂、宇賀神堂、それを拝む拝殿、そのそばに鐘楼が建っている。本堂西側には護摩堂、明治以降 元の観音堂跡に庫裡が建てられた。
14:32
文正元年(1466)栄弘(えいこう)阿闍梨が旧本堂と同じ規模と様式で再建された。春日造社殿に両廂(ひさし)付で、局・宝蔵・経蔵・篭(こもり)堂・御堂を設け、向拝に舞台を付けた寝殿造で、内陣中央、方形に配した四本柱には、聖衆来迎(しょうじゅらいごう)二十五菩薩が描かれている。須弥壇の上は 折上格天井(おりあげごうてんじょう)、大檀の上は 小組格天井、そのまわりに 四方流化粧天井(しほうながれけしょうてんじょう)を張りめぐらして、藤原時代の阿弥陀堂を現している。供物棚の格狭間(こうざま)や柱根の反華座は創建時の逸品である。昭和36年 解体修理を完了した。
14:32
文正元年(1466)応仁の兵火にかかって焼失し、応仁2年(1468)栄弘阿闍梨が再建したもの。三間一戸入母屋(いりもや)桧皮葺(ひわだぶき)で、上下層とも和様三手先を使っている。下層出入口の上に正・背面とも花肘木(はなひじき)を入れ、正面は蓮唐草浮彫(はすからくさうきぼり)の中央 蓮華上の月輪にキリク(梵字、阿弥陀如来を表す)を刻み、背面は牡丹唐草浮彫の中央 牡丹花上に宝珠を刻み、いずれも天竺式斗にのっている。明治39年(1906)特別建造物に指定され、大正4年(1915)天沼俊一博士の指導のもと、解体修理が行われた。
縁起に、後白河法皇の寄進で、本尊大日如来を運慶に仰せ付けたと記している。元多宝塔は応仁の兵火で焼かれ、二代目の塔は大正9年鎌倉に移譲し、三代目の塔は昭和61年から平成2年に亘って再建した。全国の篤志家のご寄進と檀信徒の写経、用材勧進の浄財を投じて建立し、運慶真作の大日如来像を安置している。
安貞2年(1228)奈良春日大社御造営のさい、当時の大社神主藤原時定卿が旧社殿を寄進した、全国で最も古い春日造社殿。表は入母屋、裏は切妻、桧皮葺で、棟木、千木、勝尾木をのせ、蟇股・懸魚(げぎょ)・勾欄(こうらん)・斗(ときょう)などは、鎌倉初期社殿の特色を現している。大正5年の解体修理のおりに堂内から発見された棟札(むなふだ)6枚(表裏合わせて8枚)は、鎮守社の沿革と円成寺の歴史を知る貴重な文献で、社殿とともに国宝に指定されている。
桁行梁行とも九尺、入母屋瓦葺で上半四方に連子窓をはめ、下半に袴垂を張ってある。寛文7年(1667)の再建で、昭和36年解体修理を施した。梵鐘は、昭和45年に寄進されたもの。
桁行三間半、梁行二間、入母屋柿(こけら)葺で延宝3年(1675)建立。平成7年解体修理を完了した。
北側には半蔀(しとみ)戸と舞良(まいら)戸、西側には諸折両開(もろおれりょうびらき)戸を設け、南側には窓を開く。西と北側に縁を廻している。
宇賀神をまつる鎮守社。筆(書道)の神として信仰されている。鎌倉時代に建てられた春日造社殿の向拝を唐破風にした県内最古の社で、昭和25年解体修理を完了し面目を一新した。
享保年間に再建された護摩堂が老朽化したため 取り畳み、その跡に 平成6年、不動明王、弘法大師、文 殊菩薩を祀るお堂として建立した。毎月28日には、不動尊護摩供養がおこなわれている。
楼門前にひろがる苑池を主とした庭園は、平安末期に寛遍僧正が、真言密教の教義であるバン字を基調として築造したと伝えられる。また藤原時代 阿弥陀堂の前につくられる浄土式庭園を基盤としたものであり、寝殿造系庭園の配置を備えた舟遊式庭園として、名勝に指定されている。昭和50、51年発掘調査、環境整備を完了した。
15:11
圓成寺から柳生街道を奈良市内に向かって5分弱歩きます。
すると六地蔵が見えてきます。
15:11
そこを左折すると最終目的地。圓成寺五輪塔があります。
15:13
石造五重塔 元亨元年辛酉六月日の刻銘がある
鎌倉時代末期元享元年の建立、奈良県下の五輪塔では最古の銘を有する。
15:20圓成寺発
17:39自宅着
行く予定だった、
喜光寺
西大寺
八幡神社
秋篠寺
霊山寺
は時間がなく、行けなかった。
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by hobohitoritabi
| 2012-12-18 21:03
| 近畿