和歌山以外の地域の写真をこちらにまとめます。メインブログはhttp://vonbraun.exblog.jp


by hobohitoritabi

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明日香村散策2

字数制限がかかり、ひとつにまとめられなかったので、続きです。
明日香村散策1はこちら
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川原寺跡(史跡)
12:25
川原寺は、創建の年代、経過については明らかではないが、飛鳥朝極めて重要な意義を持っていた寺院である。 まず、創建の時期については敏達天皇13年説、斉明天皇元年説、斉明天皇7年説、天武天皇朝あるいは奈良時代の宝亀5年説などがあって、必ずしも明確でない。しかし、天武紀2年3月の条に「是月聚書生始写一切経於川原寺」とある。したがって以上の内容と合わせて、天武期に存在したことは確かである。ただし、従来からも問題となっている孝徳紀白雉4年6月の条の僧旻法師の遷化に関する記事の中に「安置川原寺」とあるが、その割註に「或本云在山田寺」とあることから、川原寺か山田寺かどちらか不詳である。しかし、天武朝以後、奈良朝にかけてかなり勢力をもった寺院であったことは容易に知られる。すなわち天武紀14年8月甲戌朔丙戌に「幸于川原寺施稲於衆僧」とあり、同9月丁卯の天皇の病気平癒祈願のために「桶経於大官大寺・川原寺・飛鳥寺。因以稲納三寺」とあり、朱鳥元年4月壬午の条には「為饗新羅客等、運川原寺伎楽於筑紫、仍以皇后宮之私稲五千束、納于川原寺」とあり、川原寺に伎楽が置かれていたことがわかる。また、同5月癸亥には「天皇体不安、因以於川原寺説薬師経」、同6月丁亥には「勅遣百官人等於川原寺為燃燈供養、仍大斎之悔過也」とあり、9月辛丑には「悉集川原寺為天皇病誓願」とある。したがって天武天皇の病気平癒を祈願するため、川原寺において盛んに法会が行われたことが知られる。その甲斐なく天皇崩御の後、持統即位前紀12月乙酉の条に「奉為天渟中原瀛真人天皇設無遮大会於五寺」とあり、その中に川原寺の名が挙げられている。こうしたことより川原寺は天武天皇と特別な関係にあったことが推定される。
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橘寺境内 (史跡)
12:27
道を挟んだ反対側の小高いところに橘寺がある。

創建の事情や年代については明確ではないが、聖徳太子伝暦によれば太子がこの地で勝鬘経(しょうまんきょう)を講ぜられたとき、瑞祥があり、それによって仏堂を建立したとある。従来から問題視されている史料としては、河内野中寺の弥勒像の丙寅(天智天皇5年-666)の紀年銘に「橘寺智識之等(詣)中宮天皇大御身労坐之時、誓願之奉弥勒御像也」とある。また法隆寺東院資材帳によると推古天皇14年7月、「天皇詔太子日、於朕前講説勝鬘経、則依詔太子講説三日、講竟夜蓮花零、花長二三尺溢方三四丈之地、則其地誓立寺院、是今菩提寺也」とある。推古14年という年代についてどの程度の信憑性がるかは別として、天武紀9年夏4月、「乙卯(十一月)、橘寺尼房失火、以焚十房」とあり、また類従国史には延暦14年4月20日の条に「大和国稲二千束施入菩提寺以遭火災也」とある。さらに上宮太子拾遺記には久安4年(1148)に塔が雷火のため焼失したと伝える。これらの記事によると再三災厄をうけたらしい。平安朝になって、治安3年藤原道長が参詣し、享徳元年の古記のある南都七大寺巡礼記には、伽藍の構成などを挙げている。
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弘福寺
12:28
川原寺の金堂跡地には、江戸時代中期に現在の弘福寺が建立され川原寺の法灯を継いでいる。
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弘福寺
12:30
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橘寺本堂
12:34
橘寺は、正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」と称し、本尊は聖徳太子・如意輪観音。
橘寺の付近には聖徳太子が誕生したとされる場所があり、寺院は太子建立七大寺の1つとされている。
太子が父用明天皇の別宮を寺に改めたのが始まりと伝わる。
当初の建物は、東を正面として、中門、塔、金堂、講堂が東西に一直線に並ぶ、四天王寺式または山田寺式の伽藍配置だったことが判明している。

本堂(太子堂)は元治元年(1864年)に再建された建物で、本尊として聖徳太子坐像が安置されている。
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二面石
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12:35
二面石 境内にある高さ約1mほどの石造物で、左右に善相と悪相が彫られており、人の心の二面性を表現している。
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五重塔跡
12:39
落雷で焼失。塔心礎(心柱の礎石)が僅かに往時を偲ばせる。心礎の柱孔は円柱の周囲三方に添柱を付した形のものである。
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三光石
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阿字池
12:40
三光石
推古天皇の時代、天皇の仰せにより、聖徳太子は3日間に渡り勝鬘経講讃を執り行いました。
その時、聖徳太子の冠から日月星の光が輝いたと伝えられています。

阿字池
梵字「あ」を形取り聖徳太子が作られたと伝えられている。
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亀石
12:49
長さ3.6メートル、幅2.1メートル、高さ1.8メートルの巨大な花崗岩に亀に似た彫刻が彫られていることからこの名前で呼ばれている。
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高松塚古墳(特別史跡)
13:03
中尾山古墳と文武天皇陵との中間の丘陵南斜面に位置する。墳丘は直径23メートル、高さ5メートル程度の二段築成の円墳であり、昭和47年3月21日に極彩色の壁画が発見され一大センセーションをまき起こした。古墳は国の特別史跡に、壁画は国宝に指定されている。内部は横口式石槨で、内法の長さは2.6メートル、巾1メートル、高さ1.1メートルであり、凝灰岩の切石をもって築造されている。石槨内は漆喰が全面に塗られ、壁面には彩色壁画が描かれ、漆塗木棺が埋納されていた。南面より盗掘を受けていたが、出土遺物として、人骨以外には金銅装棺金具、海獣葡萄鏡一面、銀装大刀外装具などが検出された。これらは正倉院御物などに文化史的に近いものである。特に葡萄鏡は中国の西安市の唐墓から出土した鏡と同じ鋳型で製作された同笵鏡であることが分かり注目される。壁画は、側壁面に男女人物群像、四神、日月、天井部に星宿が描かれていたが、その根本は中国の伝統的な思想を背景にしたものであり、高句麗、唐の影響が顕著に認められている。
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文武天皇陵
13:05
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鬼の雪隠
13:19
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鬼の俎
13:21
「その昔、後ろの山に住んでいた鬼が、霧を降らせて通行人を迷わせ、捕らえて俎で料理しては、雪隠で用をたした」という伝説が残るが、実は崩壊した横口式石槨の石室(雪隠)と底石(俎)である。石室の内法幅は1.53m、高さ1.3mで、底石(俎)は長さ4.47mm、幅2.65mm、厚さ約1m。
欽明陵の陪塚の一つが崩れ落ちたものと推測されているが、一方では未完成のまま放置されたものとの説もある。
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吉備姫王墓
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僧(法師)
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山王権現
13:28
欽明天皇陵の西側にある小円墳が比定されてはいるが、確定していない。吉備姫王は、皇極・孝徳天皇の母にあたる。この墓の西側の垣の中に猿石と呼ばれる花崗岩の石像が四体あることでも有名である。この猿石は、18世紀初め頃に付近の水田から掘り出されたとされているが、この場所を欽明天皇陵のすぐ南側に存在し、古代の苑池の遺構としての性格も考えられている平田キタガワ遺跡にあてる説もあるが定かではない。製作年代や目的・用途は不明である。
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欽明天皇陵
13:30
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鬼の俎
13:33
ちょっと撮影角度に納得いかなかったので、帰りに再度いきました。
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天武・持統天皇陵(野口王墓・檜隈大内陵)
13:39
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全景
13:43
古墳時代終末期の八角墳。天武・持統天皇陵に比定・治定されている。
宮内庁発行の『陵墓要覧』による陵名は檜隈大内陵。日本書紀には「大内陵」と記述される。
墳丘は東西約58メートル、南北径45メートル、高さ9メートルの円墳状である。
本来の墳形は八角形・五段築成、周囲に石段をめぐらすとされる。2室からなる切石積みの石室があり、天武天皇の夾紵棺と持統天皇の金銅製骨蔵器が納められているとされている。本古墳は、天皇が埋葬された古墳として考えてよく、被葬者の実在性も問題がない。治定が信頼できる数少ない古代の陵墓である。

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甘樫丘から明日香を望む
14:00
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甘樫丘から飛鳥板蓋宮

14:02
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甘樫丘から大和三山
14:11
左:畝傍山
中央:耳成山
右:天香具山
この三山に囲まれた地域が藤原京の中心。
藤原京は、中国の都城制を模して造られた日本初の本格的な都城でした。持統天皇が飛鳥から藤原の地に都を遷したのは694年のこと。新たな都の造営は、亡き夫・天武天皇を意志を受け継いだ中央集権国家の確立には欠かせない一代事業でした。その大きさは、東西方向約5.3km、南北方向4.8kmで、平城京、平安京をしのぐ古代最大の都です。藤原京時代には大宝律令が制定され、貨幣も発行されました。初めて「日本」という国号を使用したのも藤原京を発した遣唐使でした。
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飛鳥水落遺跡 (史跡)
14:20
飛鳥川の東岸、飛鳥寺の北西に位置し、飛鳥寺の寺域の北西隅の西方が水落遺跡、その北が石神遺跡である。水落遺跡は、7世紀後半の建物の礎石群のある方形基檀を持つ遺跡である。基壇(一辺約22.5メートル、高さ約1メートル)は自然石を三~四段積み上げた正方形のもので、周囲に底幅1.8メートルの濠状の溝を回す。この基壇の上に、方四間総柱(柱芯一辺11メートル)の楼閣が建っていたものと見られる。基檀中央に据えたママ石には、柱の底をかませたくり込みがあり、さらに礎石には、縦横斜めにも梁石を連結させ、堅固に据えている。基檀中央には台石に据えた漆塗の箱を設置し、これに向かって八釣川から導水した木樋暗渠や、サイホン方式の桶水に用いられたと見られる銅製の銅管が検出され、また冬季には氷結防止のため温めていたらしく、炭が出土している。これが漏刻と漏刻台と考えられている。
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大官大寺跡 (史跡)
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14:23
日本書紀によると、聖徳太子によって平群に創建された「熊凝精舎」を、舒明天皇が百済川畔に移し、「百済大寺」といい、次いで天武天皇は天武2年(673年)に、この飛鳥の地に移し「高市大寺」といったが、同6年(677年)、天皇の寺という意味の「大官大寺」と改称したとある。しかし、発掘調査の結果、現在の大官大寺跡の伽藍は、文武朝のものであることが確認され、書紀に記された天武朝の高市大寺は別にあったと考えられ、7世紀後半~末にかけて国家の経営する大寺として、雄姿を誇り朱鳥元年(686年)には天武天皇の病気回復の祈願が行われ、持統天皇の時梵鐘を鋳造、文武天皇の時には九重塔や金堂が完成し飛鳥の大寺院の一つとして荘厳をきわめたといわれる。特に塔は方五間、講堂は正面九間、側面四間もある雄大な規模を有したものであった。その後、平城遷都とともに寺籍を新都に移し大安寺となり、旧寺は和銅4年(711年)藤原京の大火で焼失し、以後、寺地は田畑や民家と化してしまった。それでも明治中期までは金堂跡と塔跡が残り礎石も残っていたが、明治22年橿原神宮造営の際、運び去られ、現在その面影を伝えるものは、わずかに残った土壇のみとなっている。
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大伴夫人の墓
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14:33
大伴夫人は、大伴咋の娘・智仙娘で、中臣御食子の妻となって鎌足を生んだ。
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岡本寺
14:43
岡本寺は、明日香村大字岡という、明日香村随一の集落地、岡の農家の立ち並ぶ一隅にあります。バス停「岡寺前」から岡寺に向かう途中左側、寺域七十坪の堂宇が岡本寺本堂です。飛鳥時代、舒明天皇の岡本宮ともいわれる旧蹟を伽藍として、「岡本寺」としたとも伝えられ、現在の本堂は昭和六十三年(1988)に修復されました。
なお、岡寺の近くにあるのは岡本寺の道場。
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阿字石
14:44
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マラ石
14:50
明日香村にある謎の石造物の一つ。男性器を模したもので本来は真すぐに立っていたとも言われている。地元では、飛鳥川をはさんだ対岸の丘陵を「フグリ山」と呼び「マラ石」と一対のものと考える説もある。
子孫繁栄や農耕信仰に関係した遺物と考えることもできよう。
国営飛鳥歴史公園祝戸地区への入口付近にあり、男性の陰茎を思わせる石が斜めに突き立っている。仏教考古学者の石田茂作によりマラ石と命名された。
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フグリ山
14:51
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石舞台古墳
14:58
戻ってきました。

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by hobohitoritabi | 2013-01-02 12:18 | 近畿